フォーシーズンズリゾート オアフ アット コオリナにて、クヒオ王子の伝説的競技用カヌーを展示
フォーシーズンズリゾート オアフ アット コオリナはバーニス・パウアヒ ビショップミュージアム(Bernice Pauahi Bishop Museum)との特別な協力関係により、1902年に製作されたクヒオ王子の伝説的競技用カヌー、「Aa」を展示する栄誉を授かりました。
ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ(Jonah Kūhiō Kalaniana‘ole)(1871–1922)はハワイ王国の王子で、ケカウリケ・キノイキ2世(Kekaulike Kinoiki II)とデビッド・カハレポウリ・ピイコイ(David Kahalepouli Pi‘ikoi)の間に生まれました。王子は青年期にカリフォルニアで教育を受け、日本とハワイで政治的経験を積み、英国で学校教育を終えました。こうした教育経験により、王子は1903年から1922年までアメリカ合衆国議会でハワイ準州の代表を務めました。
Aa (当初の名称はA)は、1902年にクヒオ王子の委託を受け、コナのヘンリー・ウィークス(Henry Weeks)が硬いコアの木を使って作製しました。これは6人乗り競技用カヌーに特化して作製された初めてのカヌーでした。クヒオ王子はハワイで最も速い競技用カヌーを所望し、1906年から1910年にかけてAa は大会で何度も優勝しました。1906年9月、マヌイア・マウヌパウ(Manuia Maunupau)を主将とするAaはオアフ島での初レースで優勝しました。このレースは、近代的なアマ(舷外の浮き)と「イアコ(舷外に張り出した腕木)」をAaに取り付けて初めて使用したレースの一つに数えられています。
1922年にクヒオ王子が亡くなった後、Aaはクヒオ・カラニアナオレ王子とカピオラニ(Kapi‘olani)王妃を記念して名付けられたカピオラニ・カラニアナオレ コレクションの一部として、1923年にビショップミュージアムに寄贈されました。しかし、Aaはワイキキのアウトリガーカヌークラブに留め置かれ、そこで数回使用された後、最終的にビショップミュージアムへ移されました。
1952年、Aaはこのカヌーを修復したハーバート・ダウセット(Herbert Dowsett)の管理下に置かれました。Aaは、1960年代半ばには頻繁にレースに出場し、ここ50年間はダウセット家によって何度も修復されてきました。現在Aaは、フォーシーズンズリゾート オアフ アット コオリナで、17階の吹き抜けがあるロビーに堂々と展示されており、訪れたお客様も地元住民も同様に楽しむことができます。
「ハワイ文化を強く象徴しているこのアウトリガーカヌーは、フォーシーズンズで最高の場所に展示されています。当ホテルは、ハワイの競技用カヌーにおける最も優れた熟練の技を展示するという栄誉を授かりました。このカヌーは、ハワイの人々の幸福のために専心した王族の委託を受けて作られたものです」。フォーシーズンズリゾート オアフ アット コオリナのチャーリー・パーカー総支配人はこのように述べています。
バーニス・パウアヒ ビショップミュージアムの館長兼最高責任者であるメラニー・Y・イデ(Melanie Y. Ide)氏は「ビショップミュージアムは、リゾートに訪れたお客様と地元住民のどちらもが、フォーシーズンズリゾート オアフ アット コオリナで展示された、この貴重な文化遺産を楽しめることをうれしく思います」と述べました。
プリンス・クヒオデー
ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子の日であるプリンス・クヒオデーは、クヒオ王子の生涯と、ハワイの人々の生活改善に対する努力を称える日です。1871年にカウアイ島で生まれたクヒオ王子は、リリウオカラニ(Lili'uokalani)女王の継承者に指名されました。
クヒオ王子は1890年代の政変後、ハワイ王国の復権のために戦った愛国者でした。アリイ(王族)としてハワイアンの持続的幸福の実現に打ち込んでいたクヒオ王子は1903年、アメリカ合衆国議会への代表として、その後20年近く続くキャリアを開始しました。この職務において、王子は同僚の議会代表者を教育し、輸入問題に関する彼らの票を確保することで、ハワイのためにより多くのことを成し遂げたいと願っていました。クヒオ王子はホノルル港の大型船の航行に必要な水深を確保する浚渫(しゅんせつ)工事と、真珠湾およびハワイ国立公園設立のための予算を獲得しました。しかし、最もよく知られている彼の政治活動は、公有地払い下げプログラムでハワイの人々に土地を提供したことでしょう。1921年7月9日、このプログラムはハワイアンホームステッド法(Hawaiian Homes Commission Act)として法制化されました。
こうした政治的功績に加えて、クヒオ王子は1918年、親しい仲間と共に初のハワイアン市民クラブを設立しました。その目的は、教育、組織的リーダーシップ、市民としての責任を通じて、ネイティブハワイアンのコミュニティを豊かにすることでした。大きな変革期における果断なリーダーであったクヒオ王子は、1922年1月7日にワイキキで亡くなりました。1949年、王子の栄誉を称えて祝日が制定されました。
Kapolei, 96707
USA